2009年4月 3日

奈良では仏様が、東京では彫刻品になる。(その2)

『目的を持って存在するものは、その目的に合った場所や環境が必要』

090403.jpgこれが東京国立博物館の阿修羅展を観た感想です。
奈良で育ち、小学六年生のときから神社仏閣巡りに目覚めた当方としては、仏像はやはりお香に包まれて拝観するものと考えます。

(← この本は、小六の時に買った保育社カラーブックス「興福寺」。昭和45年の発行で価格は280円)

今回の展示となった八部衆や十大弟子は、興福寺国宝館に安置されています。そこへは子供の頃から何度も足を運びました。
国宝館では人混みも少なく、静かに仏さまと向き合えます。まさに時間は止まり、自分の中に何かを感じられる瞬間なのです。

しかし、ここ博物館での仏像は祈りの対象とはならず、文化財という芸術品に役代わりします。したがって自分と向き合う対象と期待するのではなく、彫刻作品として拝見するのが正しい接し方なのでしょう。

確かに、ガラスケースを省き360度全方位から像を眺めることができるのは、貴重な体験です。興福寺の国宝館では無理です。
しかし博物館のそれは、自分の中にある仏像との対面スタイルではないため、やはり御堂の中で拝観するべきものだという感想を強めました。
(国宝館も仏堂ではありませんが)

『目的を持って存在するものは、その目的に合った場所や環境が必要』

……を痛感した阿修羅展でした。
嗚呼、奈良に行きたい!

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コメント

kou3のように、幼き頃から長きにわたり親しんできた阿修羅像が
まるで宝石のごとく鎮座されている事は、違和感を禁じ得ないのでしょうね。

ワタチもコドモのころから大好きだったピカソやゴッホが、ガラスケースにいれられて、厳重に管理されている展示会に参加するたびに、
「彼らは本当に、こんな風に見られることを望んでいたのだろうか?」と
生意気にも思わずにはいられません。

国宝というだけで、それを一目、誰よりも近くで拝観しようと列を乱し、
横入りする人に、憂いのまなこを投げつつ…。

でもそんな運命も、阿修羅やピカソやゴッホやモネやマネやルノワールは受けいれて、そこに居ることが一流の一流たるべきさだめなのかもとも思う今日このこの頃。

受け手の、あらゆるニーズや期待に応えてこそ。

kou3も、どんな立場になろうとも、品格を失わず、
美しい志で、表現してくださいね。

YMMD with that anwser! TX

C0UTbp lnnjncarykho

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